245】謹告

3月27日未明 我が母、田中 シヅ子 が他界いたしました。
享年85才。
関係者の皆様には御気遣いを賜りまして誠に有難うございました。
恐縮ですがこの場を借りて御礼申し上げます。

私義、一人っ子の母子家庭でした。
母には幼少より大変な苦労をかけたと思います。
私に医者になることを望んでいた母と、野球大好きガキ大将の私。
思い出は尽きませんが、中学3年生の時、柳井商、萩商、広島広陵、津和野、山口鴻城等々から野球のお誘いをいただいておりましたが、普段は勉強の事も野球の事も何も私に言わない母が、中くらいの学業成績に落ちている私に激怒、この時ばかりは、「高校で野球なんかさせない!」と丸1ヶ月間口を聞いてくれなかった。
そして3年1学期末テスト次第では…との条件を出され、生まれて初めて必死で勉強しました。
後にも先にも猛勉強したのはこの時だけだった。(苦笑)
ただ単に野球がやりたかっただけなんですが。
結果は主要5教科500満点中498点。
いきなりトップ。
今思えば私にとってもこれがいけなかった。
勉強なんてやれば簡単に出来ると勘違いしてしまった。
母から高校での野球の許可は出たが、私が選んだ高校は何と当時一番偏差値の低い山口鴻城高校。(今は違いますが)
幼なじみの親友、藤野と同じチームで野球をやりたかったから。
(藤野も勉強出来るのに何故かこの高校を選んだ。後の親友、池田や川野、立石達も引き寄せられるようにこの高校を選んだ、不思議な縁だった。)
ここで我が母、高校へは野球をやりに行くのではないと2度目の激怒。
また口を聞いてくれなくなった。
最後はいつも許してくれるんだけど強烈な思い出です。
大学4年生時、最後の秋季リーグ戦、最終戦となる対筑波大学戦、シーズン2本目のホームランを川崎球場で打ったのだが、なぜか山口県に居るはずの母が三塁側スタンドで観ていた。
えっ?  おふくろが打たせてくれたのか?  と何か不思議な気持ちになった事を今でも覚えている。
大学1年の時、野球でくじけそうになり、辞めて帰りたいと実家に電話をしたら、「お前の帰って来る所は無い、二度と電話をしてくるな!!」と電話をガチャンと切られた。
あの時は参った。(苦笑)
ネガティブになったり、愚痴を言うなんて事は只の一度も無い母だったなぁ。
いつも私に言っていた事は、「人の為になりなさい」そして「許してあげなさい」だった。
いつも明るく元気で前向きに頑張る、肝っ玉母さんでした。
最期も少し笑みを浮かべながら逝った。
おふくろ、ありがとう。

皆様、この場でこのような事を記載し申し訳ありません。
しかしながら今、私が野球に携われるのも母のおかげと思っております。
何卒お許し下さい。

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